Usyukuro sound station blog
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風呂水とともに赤子を捨ててしまっている
ここで整理しよう。不連続の点ないし特異点としての空間(原空間と呼ぼう)ないし時空間を考えよう。差異=微分の場合は、原空間が連続体であるということだろう。それに対して、原空間が不連続であるとは、点ないし特異点の集合ということだろう。ここで、差異という言葉を使用してもいいが、それは、差異=点ないし特異点である。この差異のある種偶然の連結によって、異化=現象化が起こると言えよう。つまり、差異の連結によって、方向性・指向と強度・ウェイトが規定されてこよう。つまり、原空間・理念(イデア)的なものから、現象・物質的な存在へと異化=外化していく過程がここにはあるだろう。
坂元氏が、ここで物理学の問題点を指摘していた。理念的な点が実際のエネルギーやウェイト等をもつことの矛盾。しかし、この問題はハイデガー/ドゥルーズの差異・異化で説明できるのではないだろうか。つまり、原空間の差異・点・特異点は、強度・力によって始動して、いわば自ら裏返しになるようにして、表面に現象を形成していき、自らは、見えなくなるのである。つまり、自己隠蔽としての差異・点・強度があると言えよう。そう、このように考えられるならば、プラトン/ハイデガー/ドゥルーズは、ほぼ同一の事態を対象にしていたことになろう。つまり、現象世界、物質世界の発生・形成である。とまれ、ここで、不連続原空間ないし不連続原時空間における、差異・点の連動・連結による物質の生成・発生・創造が考えられた。
 では、私の樫村晴香氏のドゥルーズ哲学批判への批判にもどるとどうなるだろうか。連続/不連続の観点から見ると、樫村氏のドゥルーズ哲学批判は、ドゥルーズの差異が連続的であることであり、ニーチェの強度とは、不連続的であるということであり、両者を結合するドゥルーズ哲学は、根本的に間違っているということである。
このような観点からすれば、樫村氏の批判は全く正しい。ドゥルーズの差異=微分の考えに問題があるように思える。正しくは、差異=点・特異点とすべきである。
そして、ニーチェという差異とは、点・特異点がある種剥き出しになっている存在と見ることができようか。通常、差異=点の連結によって、現象化が起こる。このとき、途中で偶然的にある種の微分が形成されて、それが積分されるということも考えられよう。しかし、このいわば中間微分は、元々は存在しなかったものである。これにより、ウェイトとか色とか物質化=積分が生じると考えてみよう。つまり、これは、原点から見ると、偽装・シュミラクラのようなものである。まぁ、ここまでいいとしよう。では、ニーチェの差異=特異性はどうなのだろうか。思うに、この中間微分=偽装をニーチェという存在・思想は、認めないということであろう。つまり、原点の点の集合、不連続な点の集合を表現して、中間微分の偽装を否定してしまうのだろう。これがニーチェ(哲学)の特異点であろう。これが、不連続的強度というものであり、原点、原空間、原時空の不連続的強度を表現しているということだろう。このような特異な強度を、樫村氏はニーチェに見たのであろう。すると、ドゥルーズ哲学は、差異=微分の連続論と差異=特異性の不連続論を混同していることになり、樫村氏のドゥルーズ哲学批判は正しいこととなる。しかしである。ドゥルーズの記述には、後者の要素が多くあるのである。つまり、ドゥルーズの差異の哲学とは、多元的不連続特異論の側面があり、それを微分=連続論で表現しているところがあるのである。
つまり、たとえば、ドゥルーズの生成変化論とは、不連続的生成変化のことである。しかし、微分=連続的な表現をしているので、混乱しているのである。つまり、こういうことであろう。確かに、現象形成・生成には、中間微分のような擬態が生じて、それが、基体のように取られてしまう。しかし、表現には、別様があるのであり、それが、不連続的表現である。不連続的特異表現である。整理すると、表現・発現・現象化は二通りあるということで、一つは、差異=微分=連続的な擬態・偽装的表現・様態であり、一つは、差異=特異点=不連続的な表現・様態である。ドゥルーズは、これを、樫村氏が指摘するように混同しているのである。しかし、ドゥルーズ哲学の主眼点は、後者にあり、それを適切・適確に表現できずに、前者の表現(プラトン/ハイデガー)を用いてしまったと言えるだろう。
だから、私としては、ドゥルーズ哲学の主旨を鑑みて、差異=不連続=特異性的多元的表現を取りたいと思う。そして、前者の差異=微分=連続的表現はそれを覆うもの、偽装するものとして見るべきである。そして、実際のところ、『千のプラトー』(ドゥルーズとガタリ)には、この区別がなされているのである。
 ということで、暫定的にまとめると、樫村氏のドゥルーズ哲学批判は、ある意味で正鵠を射ているのであるが、しかし、ドゥルーズ哲学の主旨を十分把握していないと言えるのではないだろうか。確かに、ドゥルーズ哲学の混乱した表現の問題を指摘しているのであり、それは見事であるが、それは一面であり、もう一面のドゥルーズ哲学の主旨を十分くみ取ってはいなく、風呂水とともに赤子を捨ててしまっているということではないだろうか。4

以上、コンテクストを知らないとわかりにくいかもしれないが、要点は、樫村氏のドゥルーズ哲学批判は一面では適確であり、その問題点を見事に抉り出しているが、他面ではドゥルーズ哲学の主旨つまり不連続的な差異の哲学の構想を看過しているということである。以下、筆者の考察を続ける。

 ドゥルーズ(以下、D)哲学の問題の一つは、不連続的差異と不連続的個の関係にあるように考えている。樫村氏のD哲学批判は、Dがニーチェの強度とハイデガーの差異を混同していることである。つまり、坂元氏の見解に即すと、不連続性と連続性の問題となり、Dはこれを混同していたこととなる。確かに、ニーチェの不連続的差異をも微分=差異の連続性でDは捉えていたであろう。ここで整理すると、
1)ニーチェ的な不連続的差異の存在
2)ハイデガー的連続的差異=微分
の二通りのあり方があり、これをDは混同したということである。
私は、それを認めたが、しかし、Dの主旨は、1)であり、そのように差異哲学を取るべきであること、そして、不連続的差異という本源界と、差異の連結としての連続である現象界という2元論が述べた。これが、最初の私見である。(A)
 しかし、さらに私は、本源界と現象界との交通・交感が、共感性によってなされるだろうと述べた。(B)
また、不連続的差異と対応する現象界の不連続的差異つまり不連続的個のことに言及した。(C)
(A),(B) はそれほど問題がないだろう。(C)が問題である。これは、ある意味で、1)と2)との混合である。(まぁ、これを手品と樫村氏は批判したのであるが。)
私は、これを微分=連続性ではなくて、本源界の不連続的差異の、現象界におけるパラレルと見られないかということを考えている。これは、ハイデガーの差異=存在=微分論の問題ではない。不連続的差異と個の問題である。ドゥルーズは、前者を前個体と呼んでいた。つまり、前個体から個体となるのであるが、それは、差異=微分ではないではないだろうか。つまり、差異=微分とは、一般性の発生形式であろうから。そうではなくて、Dは、個体(個)の発生を問題にしていたのである。つまり、特異性である。特異的個体の問題である。単独性の問題である。(つまり、敷延すれば、ニーチェの問題である。)特異的個体(特異個としよう)ないし単独性の問題である。(特異個=単独性としよう。)つまり、こういうことである。前個体的領域からの、特異個=単独性の発生の問題をDは追究していたと考えられるのである。これは、差異=微分=連続性の問題ではない。現象界における不連続性の問題である。そして、不連続的な特異個=単独性は、本源界において、前個体性をもっているとDは考えたのである。そして、この前個体性とは、実は、本源界における不連続的な差異のことではないだろうかというのが私見である。あるいは、本源界における不連続的な差異とその強度である。そうならば、Dは、まったく、ハイデガーの存在論ではなくて、ニーチェ的な不連続的差異の強度等の問題を考えていたと言えよう。つまり、本源界における不連続的差異とは、現象界におけるパラレルとして特異個=単独性をもつということをDは説いているのではないだろうかということである。これは、樫村氏が述べたニーチェ的強度の問題と関係するだろう。つまり、Dの差異論とは、ニーチェ的強度の問題を、本源界/現象界において、展開したものだと言えるのではないだろうか。つまり、もはや、差異=微分は問題にならない。つまり、本源界の不連続的差異の、現象界における発現(パラレル)としての不連続的特異個=単独性をDは説いていたのではないかということである。ある意味で、ハイデガーとニーチェを結合したのである。樫村氏はこれが不可能な結合であると批判したのであるが。確かに、差異=微分を説いたことはDの間違いであったが、しかし、主旨は、プラトン/ハイデガー的な本源界/現象界の存在論的領域に、ニーチェの不連続的強度・単独性の問題を入れて、結合するということではないだろうか。結局、不連続的差異と不連続的特異個=単独性とのパラレルの哲学の創造である。私の両界媒体の共感説を入れると、不連続的差異/不連続的特異個=単独性は、共感性ないし身体的共感性によって、交通・交感するということであり、不連続の連続が形成されるのである。そして、これは、たとえば、ニーチェに発現した事態であろうし、多くの天才的な創造者が表現したことであろう。一種神秘主義的形態である。つまり、マクロコスモス/ミクロコスモスであるからだ。しかし、これは不連続的連続であるから、相違する。今、想起するのは、キリスト教の聖霊の問題である。共感性とは、聖霊とパラレルではないだろうか。不連続的差異を「父」と、不連続的特異個=単独性を「子」して、両者をつなぐ共感性を「聖霊」とすると形式は類似するのである。しかし、キリスト教は、ロゴス主義であり、同一性や連続性としてしまったわけであり、プラトンのイデアと同一であろう。だから、ニーチェ/ドゥルーズ哲学の進化的意義があるだろう。そして、これは、確かに、スピノザ哲学の一種不連続的連続論と通じるようである。
 上記のことであるが、もっと精緻に検討されなくてはならない。今のままでは、トリックに堕しているのかもしれないからである。ところで、今は、一点だけ、補足しておきたい。坂元氏との対話から、差異=微分という連続論は、不連続的差異論からすれば、成立しないということとなった。そして、差異の連結による現象化を考えるとき、差異の連結によって、いわば疑似的差異=微分が形成されて、そして、それが異化(積分化)=現象化されると考えられた。私見では、この異化は、この個体現象化は、個体=一般性ではないかというものである。つまり、分かりやすく言えば、名詞である。ケーキと言ったとき、それは、個体=一般性としてのケーキであり、このケーキ、あのケーキではない。つまり、疑似的差異=微分からの異化=現象化=物質化とは、一般的形式における物質化のことではないのかということである。だから、この場合の物質化された「ケーキ」は、まだ、特異個体、単独性、特定個体とはなっていない、一般的個体に過ぎないのではないだろうかということである。あるいは、「杉の木」が成育・現象するとしよう。このとき、疑似的差異=微分→異化=現象化を通して、「杉の木」が生成する。しかし、この「杉の木」は、特定の(特異な、単独の)杉の木ではなくて、一般形式の杉の木ではないかということである。つまり、疑似的差異=微分による現象化とは、一般形式的個体現象の記述であり、特定・特異・単独的個体の記述ではないだろうということである。そこで、樫村氏のD哲学批判は、この一般形式的な「差異」とニーチェ的強度の混同の批判ということになるだろう。しかるに、Dの問題にしたのは、一般形式的個体ではなくて、特異個体・単独性の問題である。つまり、現象界における不連続的個体性の問題であり、この特異性の「存在論」を探求したと考えられるのである。つまり、Dは、表現の誤謬を犯してはいるが、主眼点は、不連続的個体、特異個体、単独性の哲学であり、それは、正にニーチェやキルケゴール等の問題の展開であったのであり、それを、Dは、不連続的差異という本源界(内在平面、前個体界)と不連続的個体、特異個体、単独性の現象界との平行論、パラレル論、二元論で、理論化したと考えられるのである。樫村氏は、確かに、Dの表現の誤りを的確に指摘したが、しかし、Dの意図する論点を取り逃がしているように思える。Dは、実は、樫村氏が説くニーチェの強度の問題をとりわけ問題にしたのであり、それが、差異哲学であるのである。しかし、Dは差異=微分という誤謬に陥ってしまってはいるので、私としては、整理した形で、不連続的差異論と呼びたい。5

 結局、坂元氏との合作という形で筆者は、ドゥルーズ哲学の不備を解消した不連続的差異論を仮説することとなったのである。すなわち、ドゥルーズ哲学の連続的差異=微分の側面を完全に廃棄して、差異をすべて不連続的差異と捉えて、それを全面的に展開したものである。そして、ドゥルーズ哲学のイデア論的側面(プラトンのイデア論)とこの不連続的差異性とを結合して、不連続的差異論となったのである。つまり、これはプラトン哲学の現代的展開となったのである。つまり、イデアは不連続的差異となり、不連続的差異論=イデア論ということになるのである。6 これで、所記の主題を終えたこととして、次節に入ろう。
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